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ご挨拶

皆様、この度は「川越 喜多院 五百羅漢 写真集」webサイトを訪問して頂きまして、ありがとうございます。喜多院の五百羅漢はその1体1体が芸術的にすぐれた創作物でありますが、535体の羅漢をじっくり鑑賞するにはたいへん時間がかかります。仮に1体30秒しか見ないとしても全部見るには4時間半もかかります。バスツアーでこられる方は、喜多院の客殿、書院、庭園も見なくてはならず、五百羅漢はせいぜい10分程度しか見ることができません。せっかく遠くからこられているのに大変もったいない話です。そこで、ご自宅でじっくりと五百羅漢を鑑賞していただくことができるように、このwebサイトを作成致しました。まずこのwebでお気に入りの羅漢を見つけ出してから喜多院を訪問されることをお勧め致します。



羅漢とは

インドの古代サンスクリット語で仏教の究極の悟りを得た人々を表すアルハットが中国で阿羅漢と訳され、更に羅漢と省略されたものです。鎌倉時代に禅宗とともに中国から入って来た羅漢信仰は、当初、釈迦の命を直に受けた十六羅漢あるいは十八羅漢が対象でしたが、江戸時代の中頃以降に「死者に会える」という信仰およびその庶民性から、釈迦の滅後に経典をまとめた五百羅漢の造像と信仰が流行しました。



喜多院の五百羅漢が作られた時期

「喜多院の五百羅漢は川越北田島の志誠(しじょう)の発願により天明二年(1782年)より文政八年(1825年)の約50年間にわたり建立されたもの」と言われています。阿難尊者像(N0.299)は鴨田村の関根仙エ門が(おそらく父親の)供養のために寄進したものですが、その台座には「安永四年二月」(1775年)と志誠が発願する前の日付が刻まれています。その左に天明八年とあるのを(おそらく母親の供養のための)追刻と考えると、実際には志誠の発願の前に既に作られていた可能性もあります。旧入り口近くにある「板碑三尊五百羅漢記(享和癸亥3年、1803年)」によると、志誠は釈迦三尊(釈尊、文殊、普賢)及び五百聖像を造るため、出家して浄財を募ってようやく作製にとりかかったのであるが、そのわずか4年後、「二大士十六等及四十尊」を作ったところで不幸にも死亡。その後、喜多院の「成就慶厳」「星行澄音」「常蔵祐賢」の三法師が志誠の遺業を継いだそうです。記念石碑が立てられた享和3年(1803)の時点で、現在ある羅漢535体のうち何体が存在していたか、また、最後に作られた羅漢像がどれでいつ完成したのかは不明です。羅漢ではありませんが、阿弥陀如来像台座中央には文政八 乙酉 年三月(1825年)と刻まれています(右端に文政三 庚辰 年十二月廿四日とあるのは、寄進者の杉山半左衛門他4名の関係者、戒名 安誉妙心大姉が95歳で没した日と思われる)。



羅漢の損傷について

当写真集でじっくり羅漢を鑑賞しているうちに、大半の羅漢の首のところに切断痕があることや、顔面や腕が失われている羅漢があることに気づかれると思います。これは主に明治初期の廃仏毀釈運動に伴う破壊によるものですが、後に羅漢は見事に修復されました。しかし、欠損が激しくて完全には修復不可能なものもいくつかあったようです。なお修復の際に間違って他の羅漢の首が接合されたと言われている羅漢があります(No.479)。そう言われると頭と胴体のバランスがとれていないように見えます。もしそうだとすると他にも、頭と胴体が一致していない羅漢があるということです。どれでしょうか。No.141No.142の頭部も入れ替わってしまっているように思います。仮に頭部を交換した場合はこのようになります:No.141No.142



参考資料

川越喜多院五百羅漢―写真集、文:小泉 功、聚海書林、1988 (ISBN4915521419)



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 川村信之
 

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