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譜路囲出洗耳の戯言(1994-1997)



生演奏のすばらしさ−真の芸術−

 7月30日(土)ザ・シンフォニーホールにおいて、湯浅卓雄/京都市交響楽団/枚方フロイデ合唱団によるモーツァルト《大ミサ》を聴いた。ソリストはソプラノ豊田喜代美、メゾソプラノ永井和子、テノール若本明志、バリトン多田羅廸夫である。この演奏が実に素晴らしかった。全身に電気が流れるような真の感動ひさしぶりにを味わうことができた。
 まず、ソリストのうち豊田喜代美が素晴らしく、まったく手抜きのない、完璧な歌いっぷりは単なる歌ではなく、これぞプロの芸術作品というにふさわしいものであった。そういう芸術にふれることができたという感動だけでも私は涙が出た。豊田さんには新音フロイデ合唱団でも昨年モーツァルトのレクイエムで歌って頂いており、モーツァルトの音楽にぴったりの透明な歌声に感動した団員も多かったと思う。専門的なことはよくわからないが、ビブラートをかけない部分と(歌い出し)かける部分(歌い終わり)への変化、高い音の声色と低い音の声色の違いの対比もこの人の歌い方の特色の一つで、聴く側の楽しみでもある。かつ非常に正確な音程も麻薬的な快感をもたらしてくれる。《大ミサ》はソリストの聴かせどころも多く、2重唱、3重唱、4重唱が合唱と合唱の間に盛り込まれている。この全てにおいて豊田さんは実に楽しませてくれた。これだけは言葉で十分に書き表せない。CDやTVでは絶対に味わえないものであり、こういう真の喜びを味わえるのはわざわざその演奏会に足を運んだものだけの特権である。演奏会通でありながらたまたまあの演奏会の現場にいなかった人がいれば、実に不幸であるとしか言いようがない。合唱の出来にもふれておくと、こちらも大変な好演で、驚いてしまった。かなり練習してきたようで、いいかげんなところが見あたらなかった。合唱の出来が非常によいのでソリストも真剣にかつ気持ちよく歌っているいう感じであった。
 実は演奏会開催日直前までこの演奏会があることは知らなかった。たまたま日経新聞がこの演奏会の紹介をしているのが目にとまったのである。2年前の枚方フロイデのシューベルトのミサ曲の演奏がよかったので機会があればもう一度聴かせてもらおうと思っていたので、すぐ目についたのである。指揮者と合唱団の名前が大きく紹介されており、ソリストの名前は小さくしか書かれていなかったがその中に豊田さんの名前が入っていることを私は見逃さなかった。他の3名も文句無しの顔ぶれである。で、当日券で入ろうと行ってみると1枚だけいい席が残っており、演奏も予想をはるかに上回る結果であり、帰り道一人ほくそえみながら、ああ私もいつのまにか演奏会ファンからマニアになってしまったのだなと妙な気持ちになってしまった。家に帰って所有するコンサートの前売り券の枚数を数えてみると、年末までの分で10数枚。実際に聴きに行くコンサートはさらに多くなるが、このうちいったいいくつの演奏会で真の芸術を味わうことができるのか楽しみである。

音楽雑記帳

 LDコンパチCDプレーヤーが壊れて画像も音も出なくなり約1年。なくてもなんとかなるものである。なんの支障もなかった。言い替えるとそれだけ音楽的環境に恵まれているということか。FM、TVでは常にクラッシック音楽が放送されているし、1時間もあればコンサートホールに行ける。録音済みのカセットテープがたくさんあり、ヘッドホンステレオでシェーンベルクの「グレの歌」を聴くこともできた。レコードプレーヤーでレコードを聴くこともできた。ところで、CDプレーヤーが動かなくなってから当然CDを買わなくなったのであるがが、気がついたのはこれまで実に無駄なCDの買い方をしていたということだ。要するに所有欲のおもむくまま買っていたということである。1年ぶりにCD収納箱を覗いてみると、買った記憶がない、聴いた記憶のないCDがたくさんあるのである。それらの大半は、聴きたくて買ったのではなく、持っていたいがために買っていたことがよくわかった。聴きたくて買ったのであれば壊れたCDプレーヤーを1年もほったらかしにしておくことはできないはずである。これはLPレコードもいっしょで、CD同様、まだ針をおとしていないレコードがたくさんあるのだ。当然LDも。我ながら情けなくなった。
 とこれで壊れたCDプレーヤーであるが、そのままほったらかしにしておくわけにもいかず1カ月ほど前にようやく近所の電気屋に修理に出した。それが、先日サービスセンターから戻ってきたというので、ひとまずそのままにしておいて、ひさしぶりにCDを買いに出かけた。買ったCDは「ヘレン・メリル with クリフォード・ブラウン」。ジャズボーカルの歴史的名盤である。これが 800円とは信じられない。クラッシックの輸入もので 2枚組 740円なんてものまである。美味しいものは食べず、おしゃれはせず、アルバイトをして爪に火を灯すようにして貯めたお金の大半をレコードにつぎ込んでいたころがなつかしい。15年前の高校生−大学生にとって2400−2600円は大金であった。そうして何100枚と買って聴いたLPと同じ内容のCDがごみのような値段で売られているのをみると妙にむなしくなってくる。悲しみ、嘆きながら帰ってきたあと電気屋に行き、重い重いプレーヤーを家まで担いで運び、箱から出し、アンプにつないで、さあ聴こうと買ってきたCDを入れスタートボタンを押したのであるが、うんともすんとも言わない。モーターが回らないのである。以前とは違うところが壊れている。オーマイゴッドと叫びながらも、これも神の啓示か何かにに違いない、きっと「生の演奏を聴きなさい」ということだろうとと考え、さっそく演奏会に出かけて、一生に何回かあるかないかという感動を味わったのは前回にも書いたとおりである。

「何事も前向きに考えれば道は開ける」

ウィーンへの旅(1)

 先の年末年始は音楽の都ウィーンへでフロイデの友人たちと過ごした。驚くほど観光客は少なくホテルも空室が目だったが、おかげでゆっくりと落ちついて散策することができた。市内をぶらぶら歩いてみてまず驚いたのは、歩いて行ける範囲内にムジークフェラインザール(ウィーン学友協会ホール)、国立歌劇場、コンチェルトハウスなど主要な演奏会場が並んでいることである。どれも地下鉄、路面電車の駅のすぐそばで交通の便も至極よく、また周辺にカフェなども多いので演奏会の前後の時間つぶしも簡単である。終演後、ゆっくりと演奏の余韻を楽しんでから帰ることも可能である。関西の演奏会場の環境とはえらい違いであり、まことにうらやましい限りだ。
 さて今回の旅行はウィーンで本場の演奏を聴くことが大きな目的であったので、まずはムジークフェラインザール(ウィーン学友協会ホール)を訪れウィーンフィルニューイヤーコンサートを聴くことにした。このホールの内部は、いたるところ彫像や絵画、金箔で飾られており、まるで美術館の中で演奏を聴いているような豪華さである。音響もすばらしく(残響が長い)、体全体が音に包み込まれ幸せな気分になれる。吊り天井、板張りの床が実によく鳴り、体の芯まで音が響きわたるのだ。生演奏が好きなクラシックファンは生きている間に絶対に1回はここで聴かなくては死ぬに死にきれないであろう。ズービン・メータ指揮ウィーンフィルによるウィンナワルツの演奏は極上のものであった。本当に幸せな気分に浸ることができた。しかしである。この天国にいるような幸せな時間は長くは続かなかった。途中から次第に気分が悪くなり音楽を聴くどころではなくなってしまったのだ。御婦人方がつけている香水が原因である。種々雑多な強烈な臭いがホール内に充満し、呼吸困難寸前であった。(続く) (チケット写真, プログラム)

ウィーンへの旅(2)

 前回、ニューイヤーコンサート中に気分が悪くなったと書いたが、香水だけでなくホール内の熱気も気分がわるくなった原因の1つであった。立ち見も含め超満員になっているのに加え、TV中継、ビデオ画像収録用の照明の熱がすごい。室温は30℃以上に上昇していたのではないだろうか(よけいに香水が発散する)。こんな中でよくも指揮し、演奏ができるものだと関心してしまった。さすがプロである。家に帰ってから1989年のクライバーのニューイヤコンサートをレーザディスクで見てみたが、やはりクライバーも額から汗をだらだらと流し、気分悪そうな顔で指揮をしていた。また、演奏中にゴソゴソカメラを出して写真を撮る落ちつきのない客が多く、なかなか音楽に集中させてもらえないのも残念である。昔は純粋にウィンナワルツを楽しむ演奏会であったのが、世界中にテレビ中継するようになってから「1万人の第九」のようなイベント的なものになってしまったらしい(礼儀をわきまえない日本人の進出がはなはだしい)。よく見ると、みるからに普段演奏会に行ったことのないような客が多い。ウィーンフィルの定期演奏会会員はこれら観光客相手にかなりの高値(数十万円。額面は 5万円)でチケットを売りさばき、ポケットマネーをせしめているようである。ムジークフェラインザールで静かに演奏を楽しみたいのであれば、ニューイヤーコンサートだけは避けたほうがよさそうだ。
 このコンサートの他にも、事前の想像と大きく異なっていたことがあった。ガイドブックに「大晦日から新年にかけての夜12時にシュテファン大聖堂の鐘が鳴らされ、市民は広場に集い新年を祝う」と書かれていたので、一同胸ときめかせながら大晦日の夜の町に出かけたのである。新年を迎えた静かな町に大聖堂の鐘が鳴り響く、なんとウィーンにふさわしい情景であろうかという高揚した気分は長くは続かなかった。(続く)

ウィーンへの旅(3)

 我々は新年の鐘の音を静かに聴こうと夜11時ごろホテルを出て、シュテファン大聖堂前の広場に向かって歩いて行った。しかし、大聖堂に近づくにつれ様子が少し変ではないかと疑念を抱くようになった。何やら騒々しいのである。人の波をかき分けやっとのことで広場にたどり着いたが、なんとそこは20代前後の若者からなる無数の暴徒の集会場となっていた。彼らはワインの瓶を片手に酔っぱらい、奇声をあげながら徒党を組み、シュテファンの鐘の音を聴きに集まった市民の中に次から次ぎへと爆竹を投げ込んでいた。バーンというかなり大きな音のする大型の爆弾に近いような爆竹である。私のすぐそばでも爆発したが、その瞬間耳がキーンと鳴り、鼓膜が破れたのではと心配になった。爆竹だけではなく彼らは大型の打ち上げ花火を人混みの中から大聖堂や近くのホテルめがけてバンバン打ち上げている。まるで戦場である。けが人が出ないほうがおかしい。やがて救急車がけが人を運び出しにきたが人が多く前に進めない。商店のショウーウィンドウは割られる。道には粉々に砕けたワインの瓶の破片がいたるところに散乱している。そんな困難な状況の中で期待を裏切られたショックに耐えながら新年を迎えたが、シュテファンの鐘の音など休みなく鳴る爆竹と打ち上げ花火の音にかき消されほとんど聴こえなかった。そうこうしているうちに騒ぎがますますひどくなってきたので、身の危険を感じた私たちは逃げるようにしてホテルに帰ったのである。ここまでくれば安心とホテルの部屋の窓から大聖堂の方を見ると放火でもあったのか、もくもくと黒い煙がウィーンの空に舞い上がっていた。美しいウィーンのイメージが一瞬にして壊れ去った一夜であった。(続く)

ウィーンへの旅(4)

1月 1日の夜は気をとりなおして国立過激場へヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」を観に行った。昨年、日本への引っ越し公演をやったのと同じオットー・シェンク演出のウィーンでは年末年始の定番物である。国立歌劇場は見ての通りでその内部も重厚な作りであり、ロビーなど豪華に飾られた内部は眺めているだけでリッチな気分に浸ることができた。バルコニーから見下ろすウィーンの風景もまた格別であった。演奏のほうは、ツェドニク、ベリー、リーンバッハーなど歌手のメンバーもすごかったが、舞台装飾の豪華さは言葉では表現しがたいものがあった。舞台の奥行きが普通の劇場の2倍もある。現在進行中の広間でのやりとりの情景が手前で繰り広げられているのと同時に遠くのほうには次のシーンでドラマが繰り広げられる食堂が見え、メイドが忙しそうに食事の準備をしている。現在のシーンが終了すると同時に、幕を下ろすことなく舞台全体が巨大な回転装置によって回転し、食堂のセットが手前側に現れるのであった。装飾品も本物がふんだんに使われている。大阪で見たベルリン・ドイツオペラではおもちゃのようなはりぼて舞台に非常にがっかりしたが、さすが本場物は違うと改めて関心した。オーケストラはというと、楽器の音は当然ながらウィーンフィルであるが、なんとなくアンサンブルが荒い。オケピットを覗くと、おなじみのメンバーが見あたらない。そういえば、日本人の奥さんを持つコンマスのキュッヘル氏の他、主要メンバー7-8名がウィーンリングアンサンブルと称して毎年年末年始に日本に滞在して荒稼ぎしている。よく考えれば、別のコンマスのヒンク氏を含め、主要オケメンバーはゲネプロ、ジルベスター、ニューイヤーコンサートと年末年始の3回のウィンナワルツコンサートで大忙しである。オペラどころではないのであろう。歌手のほうは文句無しの出来だし、荒いとはいえ充分すぎるほど楽しめる演奏だから文句は言うまい。また、音の響きもよく見晴らしのよい正面席でたったの3000円である。これで文句など言えば、同じ内容で6-7万も出して響きの悪いホールで聴かされた日本のオペラファンが怒るであろう。1枚余ったチケットを劇場前で日本人女性(ウィーン在住の音楽家)に買ってもらうことができたのであるが、その女性に隣の席でオペラの解説をしてもらいながら聴けたというおまけも付いていた。本当に充実した一夜であった。 (チケット写真)

ウィーン珍道中−タクシー運転手は日本人が嫌い?

 フロイデの歌仲間といっしょにウィーン出かけた時の出来事。ウィーン市郊外にある高さ170mのドナウタワーの回転展望台から美しい景色を堪能した帰り,駅までタクシーで行こうとテノールY氏が言い出した。20分ほどだから歩いたほうが早いんじゃないかと私は主張したのであるが,Y氏は言い出したら一歩も譲らない。結局タクシーで帰ることにした。それが悪夢の始まりだった。
 タワー1階の売店でタクシー会社の電話番号を教えてもらい,ウィーン3度目のY氏が電話をかけた。さすが慣れたもんである。売店から少し離れたタクシー乗り場に並ぶ。車を待っている間に他の外国人観光客も列に加わったが我々が先頭だ。10分ほどでタクシーがやってきたので私たちは喜んで運転手に手を振った。しかしである。なんとその運転手は私たちを無視し,後ろに並んでいたドイツ人らしき観光客と何やら会話を交わしたと思ったらその連中をを乗せて走り去ってしまったのである。おそらく,ドイツ語で「電話をしたのはあなたたちか?」「そうだ」といったような会話がなされたのだろう。彼らは電話もせずただ並んでいただけではないか。タクシーの横取りだ!!
 腹を立ててもしょうがないので再度Y氏がタクシー会社に電話をかける。そして,今度は横取りされてはかなわないので後ろに並んでいた女性に「電話で予約がいる」旨を英語で説明してあげたところ,彼女は「サンキュー」と言ってさっそく電話をかけに行った。親切して気持ちがよい。国際親善だ。それから待つこと10分,またタクシーがやってきた。今度こそ帰れる。お先に失礼と後ろの女性に挨拶しようとしたところ,な,な,なんと彼女は我々を無視してタクシーに走り寄り,そのタクシーを横取りしてしまったのである。我々は必死で抗議した。夕闇もせまっているし早く帰りたい。だが,彼女はこれは自分が予約した車だと言ってきかない。その後ろでは彼女が引率する,マフィアのようなイタリア人男性3名が恐い顔で我々を睨んでいる。殺されてはいけないと我々はしぶしぶながらその車をあきらめることにした。そして車が走り去ったあとのタクシー乗り場には我々だけが取り残されたのであった。(続く)

ウィーン珍道中−タクシー運転手は日本人が嫌い?(続き)

 タクシーを2度も横取りされ,しかたなく今度は私がタクシー会社に予約の電話を入れたのであるが,困ったことに電話に出たタクシー会社の職員は一切英語を理解しない。日本人とか,黒い帽子をかぶっているとか,我々の特徴を伝えたかったのであるが,通じたのはドナウタワーにいるということだけ。今日中に帰れるのだろうかと不安になったのであるが,それが的中してしまった。さらに15分待ってようやくやってきたタクシーにまたしても無視されてしまったのだ。停車した車の運転手に英語で「電話したのは我々だ」と言っても一切聞こうとしない。我々を振りきって売店のほうに走り去り停車し,運転手は売店の中に消えてしまった。
 我々は売店まで必死で走り,どうにかそのタクシー運転手をつかまることに成功した。するとあっけなく身ぶりで乗れとの合図。どうやら我々がなにを言っているかわからなかったので,売店の店員にだれが電話をしたのか確認していたらしい。世界中どこでも英語が通じるなんて思ったら大間違いなのだ。なにはともあれ,指示に従い車に乗り込み,座席についてほっと一息。いいことは続くもんで,よく見ると運転手はミニスカートからすらりと伸びる美しい足を黒の編みタイツで包んだ30歳前後の美人女性だった。その瞬間Y氏と私は顔を見合わせ,長時間待った甲斐があったもんだと大いに喜んだのである。が,第2の悲劇は既に始まっていた。
 Y氏が行き先の最寄りの駅名をドイツ語で告げるとすぐに車が走りだした。後部座席からはアクセルを踏む編みタイツの足がよく見える。景色を見るどころではない。あっという間に時間が過ぎた。しかし・・・・,しかしである。どこまで行けども目的の駅に到着する気配がないではないか。鉄道路線からはどんどん離れていくし,ひょっとしてこのままどこかあぶない所につれて行かれるのではないかと言い様のない不安に襲われる。が,突然停車。よく見ると,とある町のど真ん中だ。すると運転手は,町のどのあたりにいくんだとドイツ語で聞いてくる。それでようやく解ったのであるが,我々のドイツ語の発音が悪かったため,運転手が行き先を間違えてしまったらしい。ドイツ語の子音ははっきりと発音しなければだめなのだ。地図で確かめるとずん遠くまで来ている。梅田からタクシーに乗り,淀屋橋までと言ったのに天王寺までつれていかれたようなものだ。二度と間違えてもらっては困ると,今度は地図の上で目的の駅を示すと運転手はようやく理解。車はUターンし,もと来た道を引き返すが,本当に言葉が通じているのだろうかと駅に到着するまでは心配で編みタイツどころではなかったのは残念だった。無事に駅に到着した時にはあたりはもうすっかり闇に包まれていた。歩けば20分で済んだところを,タクシーで帰ろうとしたため 1時間半もかかったのであった。(終わり)

コンサートへ行く時の心得 - とほほ者にならないために

 私は年間50回前後,演奏会に出かける。一般人としては多いほうであろう。そのぶんいろいろと失敗もやらかしてしまう。本日は,皆さんの役に立てればと,ここにその失敗談を公開する次第である。

1. 前売り券を買う前にその日のに予定が既にふさがっていないか予定表で必ず確認すること
 手帳で確認するのが面倒で,たぶん大丈夫だと買ったはいいものの,お金を払ってチケットを受け取った瞬間にその日は東京出張の日でであることを思いだし,半泣きになったことがある。そのチケットは結局捨て値で知人に譲る羽目になった。とほほ。

2. 前売り券を買ったら必ず予定表に書き込むこと
 同じ日,同じ時間帯でシンフォニーホールといずみホールのコンサートで行われるコンサートのチケットを買ったことがある。とほほ。まだある。買ったことを忘れて同じ大阪センチュリー定期演奏会のチケットを2枚買ったことがある。2枚目を買うとき,座席指定図を見ながら「だれだおれのいつもの指定席を買った奴は」と怒っていたのであるが,それは自分であった。とほほ。まだまだある。半年前に前売り券を買ったことを忘れ,非常に楽しみにしていた演奏会に行かなかったことがある。とほほ。

3. 演奏会当日は,演奏会の場所を必ず確認すること
 ちょっとチケットを見れば済むのにそれが面倒で演奏会場を間違うことが何度もあった。先日は,わざわざいずみホールのある京橋で途中下車して食事してから環状線に乗って福島まで行き,シンフォニーホールのチケットもぎりのお姉さんに「これはいずみホールです」と言われて泣きながらまたまた環状線で京橋に戻り,吐きそうになりながらもダッシュでいずみホールに駆け込んだが,演奏会は既に始まっており前半部を聴けなかった。逆のパターンで,いずみホール前からシンフォニーホールまでダッシュしたことも何度もある。とほほ。

4. 演奏会の開演時間を必ず確認すること
 普通は午後7時開演であるが,たまに6時半開演のものあるので注意が必要だ。以前、マタイ受難曲演奏会の日,早く行ってもしょうがないからとわざわざ1時間も時間をつぶして6時50分にシンフォニーホールについたら,既に演奏は始まっていた。途中から1階最後部に入れてもらえたのはいいが座るところはなく,1時間立ったまま曲を聴くはめになった。しんどいのなんの。まさに私にとっては受難の曲であった。

5. 演奏会前日には財布にチケットを入れておくこと
 1万円のチケットを忘れ,訪問先の王寺から大阪経由で京都の家にチケットを取りに戻り,再び大阪のシンフォニーホールまで行ったことがある。その疲れが出て、演奏会では半分くらい寝てしまった。とほほ。

6. 当日券をあてにするな
 以前、京都大学オーケストラのマーラー交響曲9番の演奏会を京都会館で聴いたところ非常にいい演奏だったにもかかわらず,客は7分の入りであった。2日後にもシンフォニーホールで同じプログラムが予定されていたので,和歌山の友人を「すごい演奏だ。絶対に当日券で入れるから聴きにこい」と無理矢理呼び出して大阪シンフォニーホールへ行ったところ,完売で当日券などなかった。そのままでは友人にすまないので,マーラーの9番のCDをワルツ堂で買い,和歌山まで行って友人宅で聴いたのであった。とほほ。

--- ちなみにこの演奏会では、座席数よりもかなり多くの枚数の当日座席指定前売り券を出したらしく、たくさんの人がチケットを持っていながら演奏を聴けないという事態が発生しました。中には東京からわざわざ飛行機で来た人もおり、「旅費は弁償しますから」というスタッフに、「そういう問題ではない!」と怒りまくっていました。これは法的に訴えられてもしかたがないミスです。私も別の演奏会で「当日座席指定」のチケットで席がなく、通路に座らされたことがあります(京都アルティホール)。演奏会を運営する方は気をつけましょう。

ヘッドギアとヘッドホン

 しばらく世間はオオム心理教の話題で持ちきりであったが,TVで流されたヘッドギアをつけた信者の映像を見て私は非常に驚いてしまった。私がどこに行くにもウォークマンかウォークマンCDを持ち歩き,ヘッドホンを耳にくっつけて歩いている姿にそっくりだったからである。ヘッドホンから長いコードが伸び,鞄あるいは上着の中に消えている。まるでSF映画に出てくる生命維持装置であるが,実に私にとっては生命維持装置に匹敵するくらい重要な,体から離せないものなのである。
 10数年前にソニーがウォークマンを発売するまでは,音楽は演奏会に出かけるか家の大きなステレオの前に座ってLPレコードをじっくりと聴き込むたぐいのものであった。そのころと比べれば,現在の環境は天国としか言いようがない。出勤途中や買い物をしている間の数10分も無駄にせず,ウォークマンのヘッドホンを通じ,最高の音質で音楽を楽しむことができるのである。どこでなにをしていようがバッテリーがなくならない限りクラッシック音楽を聴けるのだ。私は多い時で 1日10時間以上,気分が悪くなるまで聴いている。意識がなくなるまで酒を飲んでしまうアルコール中毒患者と同じである。おかげで私の脳の神経記憶回路の大部分は音楽に支配されしまった。今ではヘッドホンを付けていない状態でもつねに頭の中で音楽が流れている。まるで本当に演奏を聴いているかのように聴こえるのである。曲の一部が何度も何度も聴こえてくるため,気になって仕事に集中できずに困ることも多い。きっとヘッドギア信者の頭の中も私の脳と同じ状態になっており,教祖の言葉が繰り返し 1日中鳴り響いていたのだろう。
 メディアのコマーシャルに毒され,CDカタログを見てはためいきをつき,明日はどのCDを買おうかと悩む。そして知らず知らずのうちに評論家の推薦したCDを大量を買い込み,演奏会にも出かけず家に隠って 1日中CDを聴いている。これでは,どこかのサティアンに監禁され洗脳ビデオを 1日中見せられているのも同然だ。CDに入っている音楽は生で聴く音楽とはまったく違う異質のものなのだ。音楽の主体であるはずの演奏者の姿が見えてこない。オウムのヘッドギア信者の映像は,私の最近の音楽に対する姿勢が間違っていることをおしえてくれた。早く気がついてよかった。いまなら社会復帰も可能である。明日からは,再び生演奏を中心とした生活にもどることにしよう。

生演奏とCD

 先日、センチュリー交響楽団の演奏を聴きに、ザ・シンフォニーホールへ出かけた。本当にひさしぶりの生演奏である。CDを大量にまとめ買いし、聴き続けているうちにCDの音に耳が慣れてしまい、演奏会に出かけるのがおっくうになっていたのである。曲目はブラームスの交響曲第3番。この曲についてはレヴァイン/ウィーンフィルの最新録音をCDで聞き込んでいた。あまりの録音のよさに驚き、これなら生演奏を聴きににわざわざ遠出する必要はないという考えにとりつかれたのであるが、このたび生演奏を聴くことにより、CDに入っている音楽は虚構であることを再認識した。
 最初の1音を聴いただけで体全体に電気がはしった。これが本物の音楽だ。 CDでは左右の広がりだけであるが、ホールでの生演奏ではさらに、上下の広がりと、残響の中に時間的な広がりがある。ホール内部に広がる美しい残響に体が包まれると、音楽が際限なく永遠に鳴り響くように感じられた。最弱音から最強音の差(ダイナミックレンジ)の大きさもさすが生演奏である。目を閉じると現実の世界から離れ、音楽に満ちた異次元空間を空中浮遊することが可能だ。薬物を使用しなくても、天国的な快感にひたることができるのである。副作用もほとんどない。
 誤解されると困るので一応書いておくが、私はCDを全面的に否定しているわけではない。CDは生演奏とはまったく次元の違う音楽をわれわれに提供しているということを言いたいのだ。生演奏ではめったに聴けない珍しい曲はCDに頼らざるを得ないし、過去の名演奏を繰り返し聴くことも可能である。好きな時に好きな場所で安く、気軽に音楽を楽しめるというのも重要な要素の 1つである。CDのメリット,生演奏のメリットの両方を理解したうえで充実した音楽ライフを送ってもらいたいものだ。

偶然の中の音楽(1)

偶然という言葉があるが、世の中の出来事は全て何らかの関係があり、偶然などないのではないかと不思議に思うことがある。先日、何気なく入ったレコード屋でオルランド・ディ・ラッソ(1532生まれの作曲家)のレコードを見つけ内容もよく確かめず衝動買いをした。曲目は「7つの懺悔詩篇歌」で、1572年の聖バーソロミューの大虐殺の暗い思い出に悩むシャルル 9世の心を癒すために作られた 5声部の声楽曲であった。さっそく深夜 1人静かに曲を聴き、何か救われた気分になり安心してぐっすり寝ることができた。翌朝は爽快な気分でひさしぶりに早起きしNHK FMの「朝のバロック」を聴いたのであるが、驚いたことに「7つの懺悔詩篇歌」が放送されたのである。普段ほとんど聴かれることのない曲を 1日のうちに 2回も聴くとはとても偶然とは思えない。実は以前にある人に大変に迷惑をかけてしまいながら、謝るに謝れず悔いる毎日が最近続いていたのである。

「神よ、あなたのお慈悲によって私をあわれみ、あなたの深い憐憫によって私のとがを消されよ」(詩編歌第4曲より)

偶然の中の音楽(2)

今から10数年前、大学在学中の話。卒業論文の締め切りも近づく冬の深夜、私はせっせと論文の原稿を書いていた。あまりの静けさに気が付き、手を休め窓を開けてみると、下宿の前に広がる田圃は降り積もる雪で真っ白になり、街灯にうっすらと照らし出されきらきらと輝いていた。静かなはずだ。雪は音を吸収するのである。吐く息が真っ白になり、体が震えた。その時、急にレコードを聴きたくなった。取り出したのはモーツアルトのレクイエムである。しかし「縁起が悪い」と気が変わり、結局レクイエムは聴かなかった。代わりに取り出して聴いたのはマーラーの交響曲第4番の第3、第4楽章である。第3楽章は第2楽章の死神の舞踏に続く天国的な美しさを持った安らぎに満ちた曲。第4楽章は天国での楽しい暮らしを歌った声楽付きの曲である。その時なぜ急にこんな曲を聴きたくなったのか不思議に思ったのであるが、夜が明けて大学の研究室に行ってその理由がわかった。私の友人が下宿で深夜に心臓発作で死亡して大騒ぎになっていたのである。実は、その数週間前に彼からクラッシック音楽を聴いてみたいと言われたので、マーラーの交響曲第4番をテープに録音し歌詞対訳とともに渡してあった。たいへん気に入り、毎日聴いていると喜んでいた彼の姿が目にうかんだ。死亡推定時刻は深夜2時。私がレコードをかけた時刻と一致していた。

「我らは天上の喜びを味わう。だから地上のことは避けるのだ。
どんな世の喧騒も、天上では聴こえない。
すべてが最上の安息にある」
(マーラー交響曲第4番 第4楽章より)

音楽雑記帳

 最近カラオケでは1970年代の歌が流行している。新しい曲を歌いつくしてしまい、やむなく古い曲を歌ったところ意外によかったということらしい。世の中に、新しいものだけでなく古くてよいものを見直す余裕が出てきたのであろうか。クラッシック音楽では、あまり演奏されなかったりレコードとして商品化されていない未発掘の名曲がまだまだたくさんある。なのに大半の演奏会では客を集めることが優先され、有名な曲ばかりしか演奏されない傾向があった。しかし、最近少しづつ事情が変わってきたようである。大阪新音主催の演奏会は以前よりめずらしい曲のプログラムが多く、最近ではベートーベンの中期のピアノソナタ、ドヴォルザークの弦楽五重奏曲、ピアノ五重奏曲などが聴けた。大阪センチュリーオーケストラの定期演奏会では、ドヴォルザークの交響曲第6、7番、ショスタコービチ交響曲第9番、京響ではショスタコービチの交響曲バビヤール、大阪シンフォニカーではメンデルスゾーン交響曲第2番「賛歌」等など。これらの曲がまた名曲であり、演奏も十分満足のいくものであった。演奏会では有名な曲を聴き尽くしてしまい、一人家にこもってあまり知られていない曲のCDを聴いて涙を流していたクラッシックオタク簇にとってはこたえられない1年であったに違いない。ただ残念なのは、ほとんどの演奏会で客の入りが少ないということである。このままでは企画倒れということで、また保守的なプログラミングに戻らざるを得ないであろう。音楽を愛する者は1回でも多く演奏回に出かけ、音楽芸術の振興に寄与したいものである。

音楽芸術の将来

 11月 3日に京都会館で京都市交響楽団演奏会「ラインへの旅」を聴いた。マニア向けともいえる全曲ワーグナープログラム。演奏は非常に気合いの入ったもので、1曲目のリエンチ序曲から重厚なワーグナーの音楽に圧倒され、私は気を失いそうになった。ソプラノ関定子さんにより歌われたトリスタンとイゾルデの愛の死およびタンホイザーのエリザベートのアリアは、これが人間の声かと鳥肌が立ち、感動で涙の出るものであった。大編成ゆえステージ上には楽団員が溢れんばかりであり、音楽も含め、1990年に大阪新音フロイデ合唱団も参加した大阪フィル特別定期演奏会シェーンベルク「グレの歌」のステージをほうふつとさせる贅沢な演奏会であった。
 しかしステージの上の華やかさと比べ、後ろを振り返るとなんと客は半分の入りである。空席ばかりがむなしく目立つ。前回、「音楽を愛する者は1回でも多く演奏回に出かけ、音楽芸術の振興に寄与したいものである」と書いたばかりであるが、これが現実かと悲しくなってしまった。指揮者も楽団員も客席を見つめては動揺を隠せないようであった。京都、大阪在住のワーグナーファン、ワーグナーマニアよ、どうしたのか。いい音楽を聴いてもらおうとせっかく苦労して練習してきても、これでは楽団員がやる気をなくしてしまうではないか。その心配をよそに演奏はまったく手抜きのないすばらしいものだったのは、さすが京響と言わざるをえないが、演奏会後のパーティーでは本音が出た。指揮者の井上道義氏いわく、「音楽をやる立派な器(来年完成の京都シンフォニーホールのこと)とオーケストラがあっても、聴いてくれるお客さんがいなくては・・・。建都1200年というが、京都の将来が心配である」。まさに同感である。

CD紹介−モーツァルトハ短調ミサ

・レヴァイン指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
独唱:キャスリーン・バトル、レラ・クベルリ(以上ソプラノ)、ペーター・ザイフェルト(テノール)、クルト・モル(バス)
原盤:ドイツ・グラモフォン、録音1987年(ウィーン学友協会大ホール)

 この演奏のウィーンフィルの弦の美しさはたとえようがない。1曲目キリエの出だしの数小節を聴いただけで鳥肌が立ち、感動のあまり涙が出てくる。楽器の音というよりは人の声を聴いているようだ。これ以上は不可能なくらい微妙なタッチで弾いている。まさに職人芸である。ソリストのキャスリーン・バトルの声はすばらしく美しく、高音まで柔らかく澄み切っている。まさにこの曲を歌うために彼女が生まれてきたという感じである。もし、モーツァルトがこの演奏を聴いたら彼女のためにもう1曲ミサ曲を作曲するであろう。録音場所はもちろんウィーン学友協会大ホール(ムジークフェラインザール)で、ホールの美しい響きも見事にとらえられている。
 私は生演奏第一主義者であるが、このようにすばらしい録音に出会うとCDの良さも認めざるを得ない。曲も演奏者も超一級品の、すばらしい芸術作品が僅か数千円の出費で堪能できるのである。なんとも幸せな時代である。 価格:国内盤で3000円、輸入盤で1500-1700円(ワルツ堂)。

ちなみに、カラヤン指揮、ウィーンフィルのモーツァルト戴冠ミサのライブ録音のCDでも、キャスリーン・バトルが涙がほとばしり出るくらいのすばらしい歌声を聴かせてくれる。

世界の音楽ホールを訪ねて−コンツェルトハウスホール(ウィーン)

 昨年度末に、念願かない、ウィーンのコンツェルトハウスホールでウィーン交響楽団による本場物のベートーヴェン交響曲第九番の演奏を聴くことができた。一昨年も行ったのであるが、演奏会の日を間違えて悔しい思いをしたため、今回の旅行はこの第九の演奏会をメインに設定したのである。コンツェルトハウスホールはウィーン市内にあり、ウィーンフィルニューイヤーコンサートが行われるTVでもお馴染みの学友協会ホールから歩いて5分くらいのところにある。外観は白系の落ち着いた色調で、飾りたてたところもなく一見しただけでは音楽ホールとはわからない。ホール内に入ってもいたって質素であり、派手な装飾などは見られない。学友協会大ホールが壁から天井まで金色に飾り尽くされ、ゴージャスな輝きを放っているのとは対照的で、いぶし銀の輝きを持った重厚さが感じられた。床は学友協会と同じく板張りで(中央公会堂の練習会場と同じ貼り方である)、実に美しく音を響かせる。椅子は木製で布も貼っていないが、床の響きが直接体の芯に伝わり心地よい。天井は高く、弦の音がやや遠くに聴こえる傾向があるが、全体的な響きはとてもまとまりがあり、床からの響きとともに体全体が音に包まれるような感じである。このホールでの演奏会の様子はNHK−FMでもしばしば放送されるので、ホールの響きをある程度は想像することも可能であるが、ウィーンでぜひ本物の響きを楽しんでもらいたい。今回聴いた第九の演奏はガリー・ベルティーニの指揮によるもので、早めのテンポで、めりはりのはっきりした聴いていて非常に気持ちのよい演奏であった。これと比べると日本のオーケストラの演奏は真面目すぎて、重々しい。ソリスト、合唱団は日本では無名であるが、さすがに本場物で、今まで数多く聴いた第九の中で文句なく一番すばらしかった。なんといってもドイツ語が本物なのが感動的である。子音が美しい。言葉が一言、一言はっきりと伝わってくる。聴いていて感極まり涙が出た。一昨年聴いたウィーンフィルニューイヤーコンサートはお祭りのような演奏会で、チケット代が高い割には演奏自体をじっくり楽しむことができず欲求不満になったが、この第九の演奏会では落ち着いてじっくりと音楽に集中することができたのもよかった。チケット代もホテルのコンシェルジェに手配してもらった手数料込みで6千円とリーズナブルであった。日本ではほとんど注目されていない演奏会であるが、ウィーンでは毎年恒例の歴史ある演奏会で、過去には、ラインスドルフ、ジュリーニ、フレンチェーク、アバド、ドホナーニ、ブルゴス、インバル、ギーレン、ベルグルンド、ガーディナー、フェドセーエフなど超一流の指揮者が指揮している。今年はだれが振るのだろうか。第九が好きな人にはぜひ一度行って聴いてもらいたい演奏会である。(チケット写真)

コンツェルトハウスホールの響きを楽しみたいのであれば、次のCDがお奨めである。 サンサーンス:交響曲第3番《オルガン付き》他、指揮:ジョルジュ・プレートル、演奏:ウィーン交響楽団、オルガン:マリー・クレール・アラン、1990年デジタル録音。エラートWPCS-4781/2。2枚組、2000円。

注:中央公会堂 = 大阪中之島中央公会堂(赤レンガの公会堂)

世界の音楽ホールを訪ねて−ロイヤルフェスティバルホール(ロンドン)

 昨年の新年をウィーンで迎え、シュテファン寺院前の暴動に巻き込まれて死にそうになったことは以前に書いた。今年は騒動を避けてロンドンで新年を迎えることにした。12月31日午後、ウィーンからロンドンに飛び、ジルベスターコンサートを聴きにロンドン市内にあるロイヤルフェスティバルホールを訪れた。大阪中之島にもフェスティバルホールがあるが、聞くところによるとロンドンのロイヤルフェスティバルホールを真似て作ったとのこと。その真偽を確かめるのも目的の一つであった。まず外観であるが、フェスティバルホールもそうであるが品のないどこかの催し会場のような趣であった。しかし建物の中に入ったとたんその豪華さと巨大さに驚いてしまった。1階は受付、チケット売場。2階はCD売場と大きなレストラン、ワンショットバー。3階にもワンショットバー、サラダバー、サンドイッチバーなどくつろげる施設あり。4階が演奏会場入り口となっており、どこも明るい雰囲気に満ちていた。周りを見渡すと、いたるところでイギリス人が飲み食いし、顔を赤らめ大きな声で楽しそうに話し合っている。夫婦づれが非常に多く、音楽を聴きに来ているというよりは、家族サービスをし、コミュニケーションを楽しんでいるという印象をうけた。ホール側の対応もすばらしい。日本と違って、とにかく客を楽しませるための設備が充実しているのである。そして決して料金が高くない。驚いたことに、予約さえすれば手数料なしで、インターミッションに飲むためのドリンクを準備して所定の場所に置いてくれるサービスまである。休憩時間もゆっくりとくつろげるのである。まさに至れり尽くせりだ。次に、ホール内部の構造であるが、色、形、椅子の配置など驚くほど大阪のフェスティバルホールとそっくりであった。ロンドンに居ながらまるで大阪で演奏を聴いている感じがして、少し残念でもあった。肝心の演奏のほうであるが、マイナーな演奏団体によるウィンナワルツとバレエで、内容的にはいまひとつの眠気を催す演奏であった。しかし、他の地元の客はアルコールもだいぶん入っているためかずいぶんと盛り上がっていた。言い換えると、音楽を娯楽として余裕を持って楽しんでいるようであった。なにかというと演奏のあら探しをし、文句ばかりいっている日本人とは大違いである。これは両国における音楽教育の質の違いを反映しているのではないかと思ったしだいである。 さて、ロンドンではどのように新年を迎えるのであろうか。異国の文化にふれることができるのも海外旅行の楽しみの一つである。私はホテルから国会議事堂まで歩いていき、ビック・ベンの鐘の音を聴いて新年を迎えようと考えていた。しかし、TVのニュースで「今日は危険なので子供は出歩かないように。現金は持ち歩かないように」と、けが人が多数出た昨年の年末の暴動の様子を紹介しているではないか。なんとなく背筋が寒くなった私は即計画を中止し、ホテルでおとなしくしていることにしたのであるが、正解であった。行こうとしていた広場にはなんと10万人以上の人がひしめき合い、パニック状態になっていたのである。新年をTVの中継を見ながら迎えたが、画面にはその広場で繰り広げられる殴り合いのけんかが映し出されていた。ホテルの窓を開けると遠くからその群衆の発する地響きの様な不気味な響きが聞こえてきた。もし出かけていたら、私のようなちびの日本人(イエローモンキー)は生きて帰れなかったであろう。(チケット写真, プログラム)

世界の音楽ホールを訪ねて−学友協会大ホール(ウィーン)

 ウィーンの学友協会ホール、ドイツ語ではムジークフェラインザール。名前からしてなんと美しい響きであることか。ここの大ホールはウィーン・フィルの定期演奏会が行われる場所として、また世界で最も美しい音を響かせるホールとして有名である。毎年新年にNHKテレビで実況中継されるウィーンフィルのニューイヤーコンサートでもお馴染みで、そのゴージャスな内装に感動した方も多いであろう。見かけだけではなく、板張りの床、つり天井、固めの木製の椅子など、とにかく響きを徹底的に追求した作りになっている。  さて先の5月の連休に、一昨年のニューイヤー・コンサートに続き、再度このホールでウィーンフィルの演奏を聴く幸運に恵まれたので報告したいと思う。プログラムはリッカルド・ムーティの指揮で、前半がモーツァルトのピアノ協奏曲第24番(ピアノ:マレイ・ペライア)、後半がブルックナーの交響曲第7番であった。ピアノ協奏曲では、スタインウェイが言葉では表現できないほどまろやかに美しく響いていた。ザ・シンフォニーホールのように高音がキンキン響いたりしない。熟年ペライアの力量もさることながら、ホールの響きの良さにはあらためて感動させられた。オーケストラの管楽器の掛け合いも天国的な響きである。さらに、休憩をはさんで演奏されたブルックナーの交響曲は私の音楽人生の中で出会った最高の演奏というべきすばらしいものであった。弦のアンサンブルはとにかくすばらしく、第1楽章の出だしを聴いただけで涙が溢れてしまった。いまその瞬間を思い出すだけでも鳥肌がたつような、すごい一瞬であった。1階前から7列目の席で、座った場所もよかったのだろう。弦の音が明瞭で、体が音に包まれ、空中に浮遊しているような感覚に陥ってしまった。弦に限らず、管楽器も含めて、まるで人が演奏しているとは思えないような、自発的で自然な、天から湧き出てくるような演奏であった。また、金管楽器がフォルティティシッシモで吹いても、決して音がホール内で飽和しないことも特筆すべき点である。演奏が始まってから終わるまで1時間近く、私はほとんど目をつむったままだった。ムジークフェラインザール+ムーティ+ウィーンフィルが目の前にありながら、音に集中するため目をつむったままだったのである。どれだけすばらしい響きに満ちていたかお分かりいただけよう。日本に帰国し、さっそくシンフォニーホールでセンチュリー交響楽団によるブルックナー交響曲第3番を聴いたが、力のこもった完成度の高い演奏にも関わらず、ホールの響きがいま一つで屁のような音にしか感じられなかった。それほど、ムジークフェラインザールの響きはすごいのである。ホール自体が楽器になっていると言える。しかし、言葉で全てを表現することはとうてい不可能であるし、CDなどで再現することも不可能である。実際にその場所を訪れ、自分の耳で確かめるしかないのである。  ここで、ムジークフェラインザールに関するワンポイント情報を紹介しよう。

- ホールの美しさを目で見て堪能するのであれば、2階後部座席が一番。シャンデリア、ホール内装飾すべてが一望できる。
- 1階前方と後方では、響きに雲泥の差がある。後方では弦の音がはっきりせず、ぼんやりした音に聴こえる。それに対して、前方では弦の音が明瞭である。
- 2階バルコニーのステージから見て左の席も視覚的には贅沢な席である。指揮者、オーケストラが隅々まで見渡せ、バイオリンの音も明瞭に聴ける。
- 2階よりも1階のほうがホールの響きを体で感じることができる。板張りの床からズンズンと音が体の芯まで伝わってくる。

 さて、ウィーンに行く金も時間も無い方には、コリン・デイビス指揮、ウィーンフィル、ベルリオーズ「幻想交響曲」のCD(フィリップス)を聴いてみることをお奨めする。ムジークフェラインザールの響きとウィーンフィルの本質が比較的見事に収録された1枚である。ティンパニの音だけでも涙ものだ。これを聴けば、すぐにでもウィーンに行き、本物の音を聴きたくなること必至である。そして実物を聴けば、CDなどただの紙切れ同然であることがわかるはずだ。  次回は学友協会ホールで演奏会を聴くための手順を紹介する予定である。(チケット写真)

世界の音楽ホールを訪ねて−学友協会大ホール(続き)

 今回は学友協会ホールで演奏会を聴くための手順を紹介しよう。
 まず詳細な演奏会のスケジュールは大阪では入手が難しいので、直接学友協会に国際電話して確認する。ドイツ後が話せなくても、英語を話せるオペレーターを出してくれるよう要求すればよい。確認したい日が多すぎる場合は返信用封筒と国際切手を同封して、学友協会発行の定期刊行誌「MUSIK FREUNDE」を請求し入手すれば、数ヶ月分の学友協会での演奏会プログラムを知ることができる。聴きたいプログラムが決まった後は、学友協会のチケットセンターに電話して予約するだけである。その時にクレジットカード(VISA、JCBなど)の番号をきかれるが、現地でカードを示してチケットと交換、後日精算が行われる。マイナーな演奏団体の演奏会ならば簡単にチケットがとれるだろう。  さてウィーンフィルにこだわりたい人はどうするか。まず、定期演奏会は会員でないとチケットの入手が困難なので諦めて、その他の演奏会に的を絞る。そして先にも書いたように情報を収集する。同じプログラムが2,3日続けて、あるいは別の日に演奏されることが多く、また国外にはその全ての情報が流れていないので、早めに現地とコンタクトさえとれば入手可能性大である。今回の私のケースでは、日本の月刊誌「音楽の友」には、5月5日がウィーン芸術週間の初日でムーティ/ウィーンフィルの演奏となっており、3日、4日の演奏会の紹介はなかったが、学友協会に電話確認したところ、「3日は一般公開なし、4日と5日も同じプログラムで一般公開」という説明だった。他の情報も含めて判断すると、3日の演奏会は関係者用、4日の演奏会は地元の人用、5日は国外の人用である。すなわち、5日のチケットはすぐ売り切れるが、4日のチケットは比較的入手しやすいということだ。また、現地に行って驚いたのは、座席券は一般販売していない3日の演奏会の立ち聴き席(1階最後方、500円)を当日に一般販売していたことである。幸運にもその立ち聴き券を入手した直後の日本人学生に学友協会前で出会ったが、券を買うのに並んでいる人もおらず、いとも簡単に入手できたとのこと。彼は「500円で学友協会でウィーンフィルを聴けるなんて思ってもみなかった。今から聴きにいってきます」と気が狂ったように喜んでホールに入っていった(ちなみに正面1階席券は13,000円、左右バルコニー席券は9,500円であった)。私が聴いた4日の演奏会も立ち聴きの客はそれほど多くなく、スペースがあるので床に座って聴いている人もいたぐらいであり、座席券を入手出来なかった場合は「立ち聴き」で聴ける可能性も考えてよいだろう。その他、当日キャンセル券も狙い目のようである。4日の演奏会会場内で、大阪の某合唱団に行っている私の友人とばったり出会ったが、彼は当日の午前中に両親の分も含めて3枚のチケットを学友協会チケットセンターで額面どおりの金額で入手したそうである。前日には「売り切れ」の表示があったのにである。電話予約だけして当日までに取りにこない人がいるのだろう。案外、地元のクラッシック音楽ファンにとってウィーンフィルとは、我々関西人の大阪フィルに対する感覚くらいしかないのかもしれない。演奏回数も多く、なんといっても立ち聴き券が500円で簡単に入手できるのだから、高い金はらってまで聴く必要はないというところだろうか。。
 さていろいろとチケット入手の方法を説明したが、一番確実な方法は、現地に友人を作り、チケットを買ってもらうことである。ウィーンフィルの楽団員と仲良くなれば文句なしだ。
 「MUSIK FREUNDE」を見ると6月では1,2,6,9,15,16,17日に学友協会大ホールでウィーンフィルのコンサートが予定されている。時間とお金に余裕のある方はぜひウィーンまで行っていただきたい。時間のない方は会社をやめ、お金のない方は家を売ってでも聴きに行っていただきたい。それだけの値打ちがあると私は断言する。クラッシック音楽ファン、マニアを自称するのであれば、死ぬまでに一度はムジークフェライン大ホールでウィーンフィルの演奏を聴かなければ成仏できないであろう。  (MUSIK FREUNDE写真)

注:現在では学友協会のホームページなどで容易にコンサート情報を入手できます。その分競争率が上昇して、チケットの確保が難しくなっているのではと思います。

世界の音楽ホールを訪ねて−ウィーン国立歌劇場

 学友協会ホールでマチネのウィーンフィル演奏会を堪能した我々は、軽い食事を取った後、今度はオペラを楽しむために国立歌劇場を訪れた。プログラムはホルスト・シュタイン指揮によるリヒャルト・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」。世界最高のコロラトゥーラソプラノを聴かせるエディータ・グルーベローバが出演するというものである。そして知らない人もいるかもしれないので紹介しておくが、ここの歌劇場オーケストラはウィーンフィルなのだ。正確に言えば、この国立歌劇場オーケストラのメンバーが自主的に各地で演奏活動を行っているのがウィーンフィルであり、こちらが本家本元である。今回、演奏が始まる前にオーケストラボックスをのぞき込んで驚いたのは、コンサートマスターのウェルナー・ヒンク氏をはじめ、多くのメンバーがついさっきまで学友協会で熱演していた人たちであったことである。午後6時から 1時間30分の食事休憩をとった後、引き続き夜の10時半まで3時間にもわたってオペラを演奏しようというのである。強靱な体と精神力の持ち主に違いない。そして次の日の朝11時からは、またしても学友協会でブルックナーを演奏するのである。寝食の時間以外は演奏し続けだ。驚異としかいいようがない。
 さて演奏のほうであるが、オケはまさしくウィーンフィルの音で申し分なし。グルベローバに関しては生の歌声を初めて聴いたが、超絶技巧的なコロラトーラに魅了された。技術面だけでなく芸術性も最高で、「落ち込んでいる歌劇作曲家を元気づけ立ち直らせる、人生経験豊富な喜劇団の女性」という役のキャラクターを実にうまく表現していた。一番の聴かせどころのアリアが終わったとたん、会場は怒濤のような拍手とブラボーの叫び声に包まれ、なかなか次の場面に進めず困ったほどである(チケット写真)。
 ウィーンフィル演奏会のあとオペラ鑑賞と多少聴き疲れた1日ではあったが、なんという贅沢な一日であったことか。気になるチケット代のほうは両方で15,000円と安く済んでいる。ちなみにそれぞれ立ち聴き、立ち見で済ませば、両方でたったの1,000円弱と超格安!!。これなら旅行代もすぐに元がとれそうだ。さてここで年末年始の国立歌劇場のプログラムを紹介しておこう。29日がR.シュトラウス「影のない女」、30日がモーツァルト「フィガロの結婚」、31日と1月1日がヨハン・シュトラウス「こうもり」、2日がふたたび「影のない女」である。28日あるいは29日にコンツェルトハウスでウィーン交響楽団の第九を聴き、その後は昼間はおいしいケーキを食べまくり、夜はオペラを吐きそうになるまで堪能して帰国する。総経費は30万円強くらいだろうか。皆さんも一生に一度くらいこのような贅沢をしてみてはいかがでしょう。では年末にウィーンでお会いしましょう。

贅沢な一時

 私は事あるごとに、ウィーンの学友協会大ホール、コンチェルトハウス大ホールの響きの素晴らしさを皆さんに紹介してきた。そしてその響きを確かめるために、ぜひ現地で演奏会を聴いてほしいと勧めた。しかし、時間もお金もなく、ウィーンに行きたくても行けずにフラストレーションが爆発しそうになっている人もいるのではと心配である。その人たちに朗報をお伝えしよう。実は、先の2大ホールの響きと、我々が全体練習している中央公会堂3階ホールの響きがほとんど同じなのである。信じられない? そういう人は床の造りをよく見てほしい。今時めずらしい板張りである。この張り方は、学友協会、コンチェルトハウスと同じであり、この床が実にすばらしく音を響かせるのである。練習に遅れて入ってくる人の足音がとてもよく響くのと同様、我々の歌声が床に共鳴し、床から飛び出す柔らかい響きが練習会場内に満ちあふれるのである。ピアノの音も美しく響き素晴らしい。なんという贅沢な空間。感動のあまり、私はしばしば涙が出そうになる。ただ歌うだけでなく、私たちを包み込む響きを楽しむ余裕を持っていただきたい。優秀な指導陣に囲まれ、美しい響きに包まれ、なんという贅沢な2時間を過ごしていることか。だらだらと遅れて練習に参加するのではなく、たまには練習前に早くきて、ソロで歌ってみることをお奨めする。響きの素晴らしさに驚くはずである。ちなみに、中央公会堂は響きだけではなく、外観、内装も学友協会ホールに似ている。大阪に居ながらウィーンの雰囲気に浸れるのである。これで公会堂前にホットドッグの立ち食いスタンドがあれば言うことなしである。

注:現在、大阪中央公会堂(外観, 内部)は改装中。公会堂内部を卵型の近代的ホールにするという馬鹿げたコンペ優勝案はいつのまにか闇に葬られたようで安心しました。できるだけ昔の状態を残して改装するようですが、3階大ホールの板張り床が残されるのかどうか気になります。ちなみに、大阪倶楽部の大ホールも中央公会堂同様に板張りで、よく響きます。室内楽のコンサートにもってこいのホールです。


(以上、大阪新音フロイデニュース掲載分)